今年も1月17日が来た。
当日は東京にいたので、私はあの揺れを体験していない。
だから「あの揺れは体験した人でないと分からない」と
言われると、こちらは何も言えなくなる。
でも、震災の数日後に登山用のリュックを背負って
神戸までたどり着いた日から、これまでに
胸に、つかえていたものが、何かを知るために、
書こうと思った。
これは多分、15年が過ぎたからかもしれない。
16年前の1月17日は、丁度、中野での
芝居が終わった翌日で、神戸の実家に戻る予定だった。
(当時は野外や小劇団で役者をしていたのでした)
15日には母が東京に観に来てくれて、
夜行バスで神戸に戻っていた。
打ち上げの翌日だったのに、何故か
早朝に目覚めてテレビをつけたら
そこには壊滅的な状況が映し出されていた。
「神戸」というだけでどこを映しているのか
分からない。欲しい情報が手に入らない。
両親が住んでいる実家に電話しても通じない。
大阪から電話をくれた犯罪友の会(野外劇団です)代表の
武田さんが「見て来たろか?」と言ってくれた。
非常事態になると、ハイになって行動してくれる
人は貴重である。
私が「明日、神戸に行く」というと
「難民がひとり増えるだけやから、もうちょっと待ち。
戻ってくる時には、チャリンコ、一台、パチっといたるわ」
と言ってくれた。
おにぎりを持って、ほんまにチャリンコで神戸まで
6時間かけて行ってくれた。
(実は、同じ日、神戸に住む、別の役者には
肉を持って行って、皆で焼き肉とか、すき焼きを
していたことが、後日、判明したのだが…)
両親はその時、初めて娘が芝居していて
良かった、と思ったらしい。
武田さんからは両親の無事と、築50年ぐらいの借家の土台は
崩壊して、家が傾いていることを知らせてもらった。
新幹線の運転が京都まで再開した時、必要だと
言われた大量の「電池」とレトルト食品を
背負って、神戸に向かった。
電車とバスを乗り継いで、三宮に着いた時に、
崩壊した街を目にしても唖然とするだけで、
何の感情もわいてこず、そのまま、黙々と
兵庫区の実家まで歩き始めた。
知った道のはずなのに、余りの変わり様からか、
建物が崩れていたり、なくなっているからか、
相当、迷ってしまった。
1時間かけて家に戻ると、両親は無言だった。
まるで、私がずっとそこにいたかのように。
家は外からみても傾いているのだが、
両親は頑として「まっすぐや」と
言い張った。壁のあちこちが落ちているし、亀裂も
走っていたが「絶対、避難所には行かない」と。
余震が度々あったので、「大丈夫かいな」と
思いつつ、周りをみると、みな、外壁が落ちた家に
ガムテープを貼って住んでいた。
全壊した家の横にテントを張って、コッヘルで
調理している人もいた。
(登山していると、こういう時に役に立つなあ、
と感心した)
うちの周り一帯は山の途中で細い坂道しかないのだが、
岩盤が強かったらしく、古い家でも何とか持ちこたえている
家が多かった。
だが、そんな場所だから、消防車もムリなので、
火災になったら、ひとたまりもない。
自衛隊の給水車も入れない。
急な坂道を下って、また登ったところにある
お風呂屋さんが使っていた山のわき水が、
地域住民に開放されていた。
16リットルのポリタンクを
キャリーにしばりつけて、水を汲みに行く。
長蛇の列で、その大半が高齢者だった。
全壊を免れたアパートに住む一人暮らしの人が
多かった。皆、手にナベやボールといった
小さな入れ物に水を入れて、何度も往復しているのだ。
ポリタンクを持っている自分は
何だか、ずるいことしている気分になった。
この1つで相当、楽になるだろうに…。
いや、でも全員にはムリやろうなあ、とか、
他にポリタンクを持ってんの、前の中学生と
後ろのおっちゃんら2人か、とか、
頭の中で、いろいろグルグルまわる中で、
ふと気づいた。
そこは恐ろしいほど静かだった。
50人ほど並んでいたのに、誰も話さない。
時々、静かな独り言が聞こえて来た。
「今日はもうこのぐらいにしとこかなあ」
家の中からは、喧嘩している声が
聞こえたが(何しろ、壁が落ちている家が多いので)
外を歩いている人々は沈黙していた。
水汲みに行く途中で、時々、強い余震が起こった。
足下から「ご~~っ」という、
うめき声のようなものが聞こえて、地面そのものが
ぶるぶると震えた。皆が「あ」という感じで
ストップモーションのように立ち止まる。
収まると、ふっと歩き出す。
何日かたって、別のお風呂やさんが、
初めて店を開けることになった。
そこでも、また長蛇の列で、1度に
20人ずつ10分間入浴という制限つき。
父母を連れて行ったが、何百人と並んでいる
はずなのに、静かだった。
前にいた50代後半とおぼしき女性の
財布から小銭がポロポロこぼれていた。
彼女はまるで気づいていないようだったので、
小銭を拾って「落ちてますよ」と言うと、
「ああ、全然、気づかんかった」と言って、
それから、ものごっつい早口で、しゃべりだした。
テレビでは大規模な火事だけが
クローズアップされていたが、
火災は近くでも起こっていた。
消防車が入れない道沿いは、火事が起これば
広い道路からホースを伸ばさねばならない。
消火栓の水が少なかったのか、なかったのか、
水が出なくて、長屋のように連なっている家々が
すべて燃えてしまったところもあった。
その女性の家は地震では、びくともしなかったのに
火事で全焼してしまった。
「やっとローンを返し終えた所やったのに。
独りで一所懸命働いて来たのに。
なんで避難所暮らしせなアカンの?」
風呂屋の入り口に着くまで、彼女はずっと
しゃべっていた。周りが余りにも静かなので、
声が響き渡るほどに聞こえたのは、私の
記憶違いだろうか。他の音がまるで
消えたかのように彼女の声だけが記憶に
残っている。
少なくとも、私の隣にいた両親は
ひと言も発しなかった。
電気が来た日、飲み水にとっておいた
水も全部使って、母は、洗濯機をまわした。
「大事な水を、何に使うねん!」と
思ったが、母は放心状態だったので、
怒る気にもなれなかった。
近所の商店街のシャッターや電信柱には
手書きで「負けへんで、神戸」とか
「がんばろや、神戸」の張り紙があった。
電気がないと昼間でも暗い商店街で、
おっちゃんたちが、蝋燭の火を灯して、
即席の喫茶店を作っていた。
カセットコンロでお湯を沸かして
ちゃんとドリップするコーヒー1杯が
50円だったように記憶している。
コーヒーの香りとロウソクの組み合わせが
不思議なオアシスのような感じだった。
電池の自動販売機は割られて、無惨な
姿になっていたけれど(本当に電池が不足していた)
瓦礫の中では、全く不思議に思わなかった。
電話が通じるようになって、東京在住の同級生が
たまたま前日、里帰りをしていて、亡くなったことを
知った。
想像を越える出来事が起こった時、
人は泣き叫ぶことができないのだ、と思った。
あの時、「被災者の方々は、みな冷静だ」と
報道されていたが、それぞれに静かなパニックが、
起こっていたのだと思う。
救出活動の真上を飛んで、助けを求める人の声が
聞こえなかったり、崩れかけの家の上を低空飛行して、
風圧で壊れるのではないか、と中にいる人々を怖がらせた
報道のヘリコプターのこと、大渋滞している道路で、
独りだけ乗っている大手新聞社の旗をたてた車のことは
決して忘れないだろう。
復興するのは建物だけで、静かなパニックは、
皆、持ち続けているのだと思う。
崩れかけた家で両親は何とか1年を過ごし、
その後、近所のアパートに引っ越したが、
今も、以前住んでいた家の近くには行かない。
母の放心状態は、引っ越しの時も、まだ続いていて、
何を持って行けば良いのか、分からなかった。
地震の時、自分が作った棚の上から落ちて来た物で
埋まっていた父は、震災については一切話さない。
被災した友人たちも互いに「大変だった」とは
言うけれども、それ以上は話さない。
あの「揺れ」については話せても、
その後の人生がどう変わったのか、
みな違うからなのかもしれない。
言うことはできても、それで
分かち合うことはできないから。
想像はできても、自分と同じようには、分からない、
ということを分かっているから…。
胸につかえていたこと。
それは、沈黙の重さの中で言えなかったこと、
「あの時の揺れを体験しなかった」私が遭遇した
断片を伝えることだったのかもしれない。