法務省は28日、二人の死刑を執行したと発表。
執行命令を出した千葉景子法相が立ち会った。
千葉法相は「死刑廃止を推進する議員連盟」のメンバーだったが、
法相に就任してからは、メンバーから外れていた。
ま、そんなことはどうでもよろし。
権力の座につくと、手のひら返す良い例です。
本当に死刑廃止を訴えるなら、法相となったときに、
ケツまくるべきでしょう。(すみませんねえ、下品な物言いで)
それをメンバーからはずれる、というところに
すでに弱腰なのですから。
ご本人だけではなく、周りの思惑もあってのことだと
思うけれど、「立場」を持ち出して意見を変え、はたまた、反対していた
死刑を執行できるのは、「苦悩の末」であれ、それを
容認できる人だった、ということです。
周りからの圧力で、それでも私は反対だから、
そんなに言うなら辞任もいとわない、という態度であれば、
根本的な議論も巻き起こったでしょうが、今回の状況では、
うわべの言い合いにしかなりません。
曰く「政治的なパフォーマンスではないか」
曰く「誰を死刑にするのか、どうやって決めたのか」
曰く「先進国で死刑制度があるのは日本と米国の数州だけだ」云々。
根本的には、何がどうであれ、死刑というのは国家による
殺人だということに変わりはありません。
遺族も無念だった、と言った千葉法相の言葉を
借りれば敵討ち。それを遺族の代わりにやった、という
ような物言いでした。
どうせ敵打つなら、自分が打ちたい、と、
私なら思ってしまう。
政府や警察、マスコミにとっては、凶悪犯の死刑で
事件は一件落着。でも、遺族の方々はこの先、一生、
痛みをかかえていかねばならない。
何か、ここに理不尽さを感じるのです。
「死刑に反対」と言うと「自分の身内が被害者だったら
どうなんだ?」と聞かれるのが常です。
私の貧困な想像力を駆使しても、「殺したい」と
思うほど憎むでしょう。そういう人間が、生き続けるという
ことを恨んで、自分の手で敵をうちたい、と
思うし、実際、行動にでるかもしれない。
そして、なぜ、犯人は塀の中で
保護されているのか、と怒りを覚えるだろうと思います。
でも、もし、自分で手を下したら、いくら相手が
殺人犯であっても、自らが塀の中にいくことになります。
情状酌量ということもあるかもしれませんが、
敵討ちは、今の社会では認められていません。
でも、それと同じことを国家の名のもとにやることで、
誰も殺人犯にならない、というところに歪んだ
解釈があると思えてならないのです。
相手が殺人犯であれ、人を殺すことを、そして
その順番を国家が決める、というところに、
恐ろしさを感じるのです。
「えん罪」であっても刑を執行してしまったら、
取り返しがつきません。
死刑がすでに抑止力になっていないのは、
誰の目にも明らかです。
「死にたいから子供たちを殺した」宅間死刑囚を
希望どおり、死刑にしてあげる国家とは、
なんぞや、と思うのです。
「死にたくても死ねない」苦しみを課すことは
できないのか、と。
凶悪犯が亡くなれば、マスコミも事件を過去のこととして
葬るし、政府は、迷惑な異物は排除しました、と、
いうことで決着して、原因は個人の問題に
帰して終わり。
これでは、「死にたいから人を巻き添えに」という犯行には、
死刑が抑止にはなり得ない。
そして、また秋葉原のような事件が起こる。
これは一体なんなのか、まだ当事者になっていないうちに
自分で考えるべきではないか、と思ったのです。
大勢が賛成していることに反対するのは覚悟が
いるし、自分が当事者になったときに、今の
自分を憎むかもしれない。
それでも、やはり、言うべきだと思うのは、
凶悪犯罪者を「社会の異物」として、死刑で排除し、
見えないようにするだけでいいとは思えないからです。
そして、今回は、特に、それを選挙に落ちた法務大臣の
権限で行われたことに不信感を抱きました。
なぜ、今なのか。人の命を政治的に
操ることが許されて良いのか、と。
ラテンアメリカにいたせいもありますが、
どんな政府であれ、人殺しの権限を持つことを
許すのかどうかは、私たち国民が考えなければ
ならないことです。
今は凶悪犯にしぼられていますが、政府の体制が
ラディカルに変わったときにどうなるのか、まで考えると
「死刑制度」は、人ごとではないと思うからです。
税金を使って凶悪犯を生きさせるのはおかしい、
と言われる方も多いですが、もし、それが、より良き社会に
つながることであれば、他のしょうもないハコものに
税金使うよりは、ましだと思います。
まあ、でも税金つかうな、という声が高まれば、
これから死刑執行は増えるのでしょう。その順序の根拠も
知らされずに、法務大臣の権限でもって。
私は現行犯の凶悪犯には死刑の代わりに
スペインやラテンアメリカのように懲役100年とか
400年とか何度生まれ変わっても償えない罪の重さを感じる
量刑制にすべきだと思っています。
そりゃ終身刑と同じじゃん、と思われるでしょうが、
どれほど重い罪を犯したのか、が日本の無期懲役では
分かりにくいから。連続殺人や凶悪犯には、
保釈や恩赦、仮釈放を受けにくい形にして、
死刑を廃止すべきだと思います。
戦後の死刑囚と事件というサイトがあったので
どのぐらいの死刑確定があり、再審請求があるのか、
はたまた、どのぐらい執行されているのか、
そして、その事件の概要まで分かるようになっています。
死刑囚リスト(事件史探求)
この中で、なぜ、今回の2人に刑が執行されたのか
その根拠がどこにあるのか、私には分かりませんでした。
そして何十年たっても再審請求がなされていることも。
随分、長くなりましたが、この件は、学生時代から
ずっと考えてきたことで今、初めて文章にしました。
そのきっかけとなったのは、加賀乙彦著の
「宣告」でした。
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