福永壮志監督「リベリアの白い血」

公開3日目に観に行ったのにもう1ヶ月。遅くなってすみません。渋谷アップリンクで上映が続いていることが何より嬉しい。というのも、この映画を観た時に、最近、ラテンアメリカ映画でも中々出会えない後をひく映画だと思ったからです。

ずっとどこかに映画のシーンやセリフが、いつまでも残る作品に心惹かれるからですが、今や、ラテンアメリカの独立系作品でさえ、内面をじっくり描いた物が少なくなって来て寂しく思っていたところで、この作品に出会えたのは僥倖です。

あらすじについては、公式サイトを見ていただくとして、まず惹き付けられたのは、主役のシスコとリベリアのゴム園。

丁寧に撮られた、ゴムの原料を収集する仕事と、そこで黙々と働くシスコの手の動きに釘付けになりました。淡々とした時間の流れの中で、手元のアップと引いた風景との間にある緊張感を、ずっと観ていたいと思ったほど。

労働環境の改善に立ち上がるためストを起こすけれど、みな、妻に怒られるのが怖くて、仕事に行くフリして集まっているのには「どこも同じだなあ」と笑ってしまいました。

それほど、「これだけ大変なんだ!」という大声の主張がないのに、このままでは家族と生活していけない、という焦りが伝わってきます。

この作品の全編通して、「大声の主張がない」ところに好感を持ちました。自国以外の国で撮る映画の中には、ついつい「正義の主張」をしてしまう作品もあるので、いつも引いて観てしまうのですが、そんな心配は無用だと最初のシーンで思いました。

翻ってニューヨークの場面では、どんどんと心がざわついていきます。一番、忘れたいであろう過去を知っている人物にニューヨークで出会ってしまう、という物語の展開に緊張感が走ります。リベリア人のコミュニティの中で住む場所も、タクシーの仕事も見つかり、孤独感があるとはいえ、一見、順調に思える中でのシスコの「怖れ」が、徐々に増幅していき、ハラハラさせられます。

どんな結末になるのか、と。

それは映画を観ていただくとして、最後はタイヤを替える手に釘付けになりました。

今回、心に刻まれたのは「手」でした。

余りにラテンアメリカ映画を観ているためか、米国のビザがもらえたりするところや「おお、リベリアからニューヨークって飛行機なのね」(当たり前)とか、「ニューヨークでタクシーの仕事できるんだ」とか、まるで米国に入りたいメキシコ人のような目でみてしまいましたが、陸続きだからこそ、米国に入るまでを描くラテンアメリカの映画とは異なり、移民たちの苦悩を越えて、外側からは分からない過去を持つ男の内面を、ずっと覗き込んでいたくなるような映画でした。

この作品と福永監督に出会えたことに感謝!