本書は、「俺俺」や「夜は終わらない」の著者、星野智幸さんの選りすぐりエッセイ集。
2014年から1998年まで年代を遡る形になっている。星野さんには、「言ってしまえばよかったのに日記」というブログがあって、時々、のぞきに行っているのだが、文芸誌や新聞へのエッセイがこうして本になってじっくり読めるのが嬉しい。
静かな語り口で、時にはユーモアも交えながら16年間の足跡をたどっていくと、星野さんの決してぶれない軸にたどり着く。
2012年のエッセイ「震災を語る言葉を待つ」から、2011年の「言葉を書く仕事なのに、何といっていいのか分からない」、はたまた2002年の「戦争を必要とする私たち」まで、何度も、何度も、“言葉を書くことがきつい”状況に陥りながらも書いて来たのは、“言葉が機能していない事態には抵抗したい。言葉が通じなくなったら、私たちは孤立して生きるしかない”(「絶対純文学宣言」)ことへの危機感だ。
その根底には、言葉への信用を回復するには文学作品しかない、という踏ん張りと “形式的で空虚な言葉だけは絶対に吐かない、流通させない”(「新人作家の賞味期限」)ことが“作家としての社会的責任だ”という確固たる覚悟がある。
ラテンアメリカでは、表現活動は、おしなべて政治的行動で、作家はもとより俳優や映画監督、ミュージシャンたちも作品を通してだけではなく、様々な場面で、政治的、社会的発言をする。それが当たり前のメキシコで、文学を志した星野さんだからこその覚悟だと思う。
デビュー前の星野さんと初めて出会って、「文学をするためにメキシコへ行った」と聞いた時の衝撃。あの瞬間を、今でも鮮明に覚えている。星野さんより10年も前にメキシコに留学した私は、卒論とフィールドワーク、映画以外は、ギター弾いて、歌って呑んでいただけだったので、メキシコで文学っすか!と、とても新鮮だったのだ。
以来、デビュー作「最後の吐息」から、全ての星野作品を読んで来たが、毎回、純文学の可能性をどんどん拡げている気がする。(この点に関しては、いつかじっくり書いてみたい)
そんな星野さんだから、エッセイの内容も多彩だ。メキシコへの里帰りや死者の日のこと、台北やインドでの作家たちとの交流、韓国滞在記、そして、もちろんサッカーから、タンゴ、執筆日記に至るまで、ついつい、読み進んでしまう。ところどころ、「ぷふっ」と笑いながら読み終わるごとに、様々な想いが去来する。それを明確にすべく、今度は、1998年から、ゆっくりと時間をかけて、ひとつ、ひとつ読んでみようと思った。
そして、私も、また、ブログを書き始めよう、と。
最近、日記は書くけれど、ブログを書いていない。
余りにも色々なことが起こりすぎて、頭が整理されていないこともあるけれど、誰かに何かを伝えること、映画を通して伝えることに疲れてしまった、というのが本音だ。巨大な壁の前で途方にくれて、「もう、どうでもいいや~」という無力感に苛まされながら、日本から逃げることしか考えていなかった。サンセバスティアン映画祭やローマ映画祭で、今では友人と呼べるようになった仲間と話して「まだ独りじゃない」と思えることだけが救いだった。
そんな私に、冷水を浴びせかけてくれたのが、エッセイの帯にもある文章だ。
“どれほど極端な情勢になろうと、他人の言葉や雰囲気になびかず、自分で感じて、自分で考え、言葉遣いは人と同じでもいいから、虚無に陥らずに、自分の責任のすべてを賭けて発言するほかない。現状を生き抜き、変えるために、私の言えること、私のできることは、この当然で陳腐な文句がすべてである”
同時代に作家・星野智幸が存在してくれたことに感謝しながら、虚無から脱して、また、ゼロから始めてみようと思った。そして、その経緯の中で考えたことを書いて行こうと。
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